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カーリング
カーリングは私自身を表現できる舞台  一人の人間として挑戦を続けたい(北海道銀行フォルティウス/小笠原歩選手)
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オリンピックに3度出場。トリノオリンピックで一躍話題となった「カーリング」の立役者・小笠原歩選手。株式会社博報堂DYスポーツマーケティングは、第一線に復帰を果たすこととなった小笠原選手とマネジメント契約を結び、北海道銀行をはじめとするスポンサーシップを締結。チーム「北海道銀行フォルティウス」の誕生をサポートしました。
現在もカーリング界の中心選手として活躍する小笠原歩選手に、カーリングの魅力や母としてスポーツに関わる意味、今後の展望などについてうかがいました。

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■オリンピックでプレーすることは選手として最高の誇り

出身は北海道北見市の常呂町です。1988年に全国で初めてカーリング専用の屋内競技場ができた、日本におけるカーリング発祥と言われる地です。親はもちろん、周りの大人はみんなカーリングをやっていたので、幼いころからカーリングは私にとって非常に身近なスポーツでした。本格的にプレーを始めたのは中学1年のとき。友人にチームを結成しようと誘われて気軽な気持ちでやってみたんですが、私自身、運動神経は決して良くはなく、思った以上に難しいなと感じたことを鮮明に覚えています。その後はコーチの厳しい指導のもと、ひたすら練習の日々です。実際に何度もやめたいとは思っていたんですが(苦笑)、ジュニアのころから海外の大会に行く機会もたびたびありましたし、やはりカーリングはチームスポーツですから、周りの足を引っ張らないようにしたいという一心で練習していました。世界大会などの舞台で成績を残していくうち、カーリングは1998年の長野オリンピックで初めて正式種目に採用されることになります。そのときから具体的な目標としてオリンピックを意識するようになりました。そして2002年ソルトレイクシティオリンピックに初めて出場して結果は8位。次の2006年トリノオリンピックで7位という成績を残しましたが、結婚・出産というライフプランがあったので、休養に入りました。復帰後の2014年ソチオリンピックには、日本では冬季オリンピアンとして初の母親アスリートという立場で出場しました。3度目のオリンピックでは日本最高順位タイの5位に入賞することができました。選手としてあの舞台でプレーできることは最高の誇りですし、オリンピックはずっと私のカーリング人生の大きな節目となってきました。カーリングは4人で行う、全員のチームワークが大前提のスポーツです。それぞれの最高のパフォーマンスがつながって初めて勝つことができます。そういう意味で、出場した大会はそれぞれ違うメンバーなのですが、それぞれの大会で最高の仲間に恵まれ、一緒に最高の夢をかなえることができたんだなと思います。

■子どもには、夢に向かって頑張る背中を見せ続ける

子育てをしながらバンクーバーオリンピックを観戦していたときに、「また選手としてプレーがしたい」という思いにかられ、船山弓枝選手に相談しました。船山選手とは中学生のころから共にプレーしてきた同志で、子どもが生まれたのも同じころ。彼女も復帰への思いを抱いていて、次のオリンピックを視野に入れて復帰するならこのタイミングしかない、と話し合いました。復帰するなら勝てるチームじゃないといけないし、家庭との両立という課題もある。相当な責任と犠牲への覚悟がなければなりませんでしたが、船山さんという存在のおかげで、母親としても、再びアスリートとして挑戦するという決断ができました。決して一人ではできない選択だったように思います。

日本では、母親は子どものそばにいるのが当然だという意見も根強くありますよね。でも国際大会などで海外に行ったり、外国人のコーチなどと接していると、母親になっても変わらず自分のキャリアを追求して、輝いている選手がふつうにたくさんいることに気づかされます。海外のそういった環境に接することが多かったからか、私も、「子どものためにも家庭を優先させるべきなのかもしれない」と考えたこともありましたが、それでも挑戦しないという選択肢はありませんでした。私の場合、挑戦することをあきらめてしまっては、かえって後々子どものせいにしてしまう気がしたんですよね。

復帰直後のころはトレーニングで肩が上がらず、洗濯物を干すのも一苦労、といったこともありました。疲れてしまって子どもより先に眠ってしまうことも。でも私自身も、働く親の背中を見て育ってきましたし、子どもに対しても、夢に向かって挑戦する背中を見せるしかないかなと思っています。遠征などで家を離れることも多いので、子どもには寂しい思いをさせているかもしれないと考えると心苦しいのですが、いつかはわかってくれると信じています。

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■母親アスリートとして、選手として、社会に伝えていきたいこと

この6月から、「さっぽろ女性応援会議」外部委員の一員に就任しました。私はスポーツ界の代表として、札幌市に住む女性の社会進出を応援しています。女性へのエンパワーメントを目的に結婚や出産を機にキャリアを退かなければならない女性たちが多いという課題の解決のために何をすべきかを地元の企業や関係者の方々と議論をしています。いまは子育てをしながら選手として頑張っている後輩選手もいます。後輩たちが生きやすい道を歩めているなら、とてもうれしく思います。日本のスポーツ界にももっと母親で活躍する選手がいてもいい、それが当たり前のようになればいいなと思いますね。

また、北海道銀行フォルティウスとして2012年からずっと続けているのが、赤い羽根共同募金への「赤い羽根サポーター」活動です。チームが1勝するごとに2000円、1年のシーズンが終わったときに総額をまとめて募金するというもので、自分たちの1勝が誰かに役立てられ、喜んでもらえているというのは本当に励みになります。自分が社会とつながっている、貢献できているという実感が持てますし、何より競技にも張りが出てきます。日本では海外ほどチャリティー活動がさかんではないので、私たちの活動を通して、カーリングのファンの方をはじめ、周囲の方をうまく巻き込んでいって、もっと大きな活動に育てていけたら嬉しいですね。

■次なる夢は2022年の北京。2020年の東京オリンピックは観戦を楽しみたい

カーリングというスポーツの醍醐味は、氷上に意味のない石は一つもないということ。カーリングをより面白く観るポイントとしては、どうしても円の中心にある石に目がいってしまうかもしれませんが、2番目、3番目に円に近い石も、その後の得点につながっていく可能性が高いので、そこを見ておくといいです。どうしても得点が欲しい時なんかは、「そんなところの石の後ろにも回り込むの?」というような、意外な動きに出ることもあります。そんな選手の動きにも注目してもらうと面白いかもしれません。また、会場の室温、現地の気温・湿度などによって氷のコンディションも刻一刻と変わってきますし、ストーンそのものも自然のものですから、100%同一の石は存在しません。完璧なショットを打ったと思っても、思わぬところで方向が逸れるといったことも往々にしてあります。そんな“読めなさ”もカーリングの難しさであり面白さなのかな、と感じています。

2018年の平昌オリンピックへの出場権は惜しくも逃しましたが、現在チームはすでに2022年の北京冬季オリンピックを目指して始動しています。もちろん、観戦する立場として2020年の東京オリンピックも楽しみにしています。私がオリンピックを意識するきっかけとなった1998年の長野オリンピックでは、観戦ツアーに参加して会場に足を運んでいました。そこで友人のカーリング選手が世界の舞台でプレーする姿を目の当たりにし、鳥肌が立つくらいの感動を味わったんです。あの体験が私の人生に大きく影響したのと同じように、きっと2020年の東京オリンピックでも、たくさんの子どもたち、若い世代が、人生で忘れられない体験をすることと思います。そこからまた新しいアスリートの卵たちが生まれていくんでしょう。

「カー娘」「カーママ」というニックネームを始め、さまざまな形で注目していただいたおかげで、カーリングというスポーツの知名度は以前よりは上がったのかなと思います。いまも母親アスリートとしてこうして発信する機会を与えていただいています。ただ、自分は特別なことをしているという意識はまったくなくて、たまたま家庭があり、子どももいますが、基本的には一人の人間として夢を追いかけているだけだと考えています。それでも、「小笠原さんの姿を見て頑張ろうと思いました」と声をかけられたりすると、自分が選んだ道は間違っていなかったんだなと思えますね。カーリングは私自身を表現できる舞台です。最高の仲間たちに恵まれ、いまもこうして競技を続けていくことができるというのは、とても幸せなカーリング人生だと感じています。最高の仲間とは、チームメイトだけではなく、これを読んでくださっている「あなた」、もです。応援してくださっているお一人お一人が私の最高の仲間だと思っています。

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◆プロフィール 
小笠原 歩(おがさわら・あゆみ)
中学校1年生の時に、船山選手ら同級生とカーリングを始める。カーリングを始めた頃のポジションはセカンドで、世界ジュニア選手権大会においてオールスター賞を受賞している。2002年ソルトレイクシティオリンピック8位入賞後に拠点を青森に移し、「チーム青森」を結成。ポジションがスキップになる。2006年トリノオリンピックでは強豪国カナダなどを破り、日本にカーリング旋風を巻き起こすが、直後に第一線を退く。結婚・出産を経て2011年に現役復帰。日本代表となって、世界最終予選を勝ち抜き、3度目となるオリンピック出場権を獲得。2014年ソチオリンピックでは、日本選手団の旗手を務め、チームも5位入賞を果たした。国内ではまだ数少ない母親アスリートとしての注目度が高い。小学校2年生の男児の母親。書道師範の免許を持っている。趣味はソーセージ作り。北海道札幌市在住。北海道銀行フォルティウス所属。

<関連情報>
CSRレポート2016事例紹介VOL.3 北海道銀行フォルティウスのマネジメントを通じて女性、母親へのエールを送る支援活動を(博報堂DYスポーツマーケティング 小野寺美穂)

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